■本場の"味"を求めて 英国へ‥‥‥イギリスの旧友との再会(2) 小野がクリスに連絡をとったのは1996年の秋のことである。 いろいろなことがペンディングのままであるが、市販化の可能性を探っていた小野は英国の状況を調べようと考えた。元CG誌の編集長で、長期テスト車としてRocketに乗っていた熊倉重春氏に、住所と電話番号を教えてもらい、Rocketの製造会社であるThe Light Car Company に連絡を入れてみる。すぐにクリスから返事が返ってきた。
クリスに計画の概略を話すと、彼はまず自身が運営しているThe Light Car Company に小野を案内し、Rocketを隅々まで見せてくれた。小野はクリスの会社が小規模ながら、一定レベルのクオリティを維持していることを確認した。その後3日間をかけ、クリスは彼のプジョー205ディーゼルに小野を乗せて、英国の隅々に広がる彼のネットワークを見せてくれる。久しぶりにクリスの運転する車に乗った小野は、彼のドライビング・スキルがまったく衰えていないのを知りおもわず微笑んでしまう。 英国の典型的な田舎道、2台すれ違うのがぎりぎりのワインディングロードを日本人の感覚では、いや少なくとも小野の感覚ではまったくついていけないスピードで、プジョー205ディーゼルは走り抜け3日間で1000マイル以上は軽く走ったであろう。はるかに高性能なクルマを軽々と後にしながら、そんな時でもクリスはまったくリラックスしている。ステアリング操作、ペダル操作はあくまでもスムーズで、流れ去る外の景色にたいして、まるでスローモーションを見ているようだった。 この3日間の間に、アウトユニオンのグランプリカーのレストアをやっている会社、アルミ板を英国独特のローラーホイールの間に挟んで、しごきつつ流麗なボディを作り出すメタルクラフト屋、マグネシウムやチタニウム加工を得意とする機械加工屋、特殊なレース専用部品屋、FRPボディ屋、スチールチューブを溶接してスペースフレーム製造を行う会社等々、英国の少量生産自動車産業の隅々を見ることができた。 グランドツーリングが終わったとき、小野はクリスに尋ねた。小野が計画しているCadwellオンロードバージョンの商品化、事業化に協力してもらえないか、と。 クリスは、「おまえは本気でやる気か?」とでもいいたげな目つきで小野を見つめてから、おもむろに口をひらいた。 「英国にはコテージ・インダストリーとでもいうべき小規模だが、優秀な技術をもった会社がたくさんある。これらをうまくつかえば、きっとすばらしい車ができるだろう。おれはRocketを生産していろいろ貴重な経験をつんだ。おまえとは10数年まえに一緒に組み、どんな奴かはわかっているつもりだ。 おまえもおれが信頼できる人間かどうか、わかっているだろう。おまえの会社も、ずいぶんいろいろな技術を身につけたようだが、おまえと組めば面白いことができそうな気がする。協力してやろう。ただし、おまえが本気でやるんならだぜ」 それがクリスの答えだった。
だがクリスが、スタイリングについても提案をしたいという。スタイリングの段階から製造面を考慮にいれないと、後がたいへんだからという理由であった。同時にクリスの友人であり、少量生産スポーツカーの世界をメインに活動しているデザイナー、スティーブ・エバリット(Steve Everitt)を起用したいという気持ちが、クリスには最初からあったようだ。 2回目に小野が英国をたずねたときには、既にスティーブの手になるイメージスケッチができあがり、日本側で進んでいたスタイリング案に対する、カウンタープロポーザルという形で検討されることになった。 日本案はあくまでレーシングカーCadwellをベースとして、オープンが基本、雨対策は簡単な幌で対応しようとしていた。 これに対しスティーブの案は、タルガトップ的なデタッチャブルトップをもつ構造で、しかもフロントスクリーンもデタッチャブルにしようという大胆な提案であった。これにはRocketの経験からウエザーイクイップメント、すなわちウインドスクリーン、屋根、サイドウインドーがしっかりした全天候型にしておかないと、販売数量が限られるというクリスの意見が反映されていたのである。 スタイリングテイストは英国風というより、イタリア的なダイナミックなものであった。 これを見た小野は、スティーブ案におおきな可能性を感じ、スティーブ案をベースにスタイリングを進めることを決心する。 |