■本場の"味"を求めて 英国へ‥‥‥イギリスの旧友との再会(1) 小野昌朗は先の見えない開発をすすめながら、心では既に商品化をきめていた。 今日の自動車産業が欧米日それぞれの得意分野が関わりあうことで発展してきたように、このスポーツカーもそれぞれの得意分野を活用することが、商品化に際してはよりよい結果を生むことになる。小野は当初からそう確信していた。特にいろいろな意味でリソースの不足している東京アールアンドデーが事業化に成功するためには、この方法しかないと。
クリスはレーシングドライバーとして'70年代から'80年代初めにかけて活躍していた。1971年にはスウエーデン・グランプリに優勝、1973年にはヨーロッパの2リッタースポーツカーシリーズでチャンピオンに輝いている。ル・マン24時間には長い経験をもち、プライベートチームからの参加でありながら3位、4位、5位を含む好成績を残している。そんなクリスと小野との出会いは、さかのぼること約20年も前の、'70年代末のことであった。小野がデザイナーとして設計したル・マン24時間レース用レーシングマシンのハンドルをクリスが握ったことにはじまる。 小野が強い印象として記憶しているのは彼のスタミナと悪コンデションでのコンシスタントな走りである。ル・マン24時間レースは、名前のとおり24時間ぶっ通しで走りつづけるのだが、クリスは夜間の速さがきわだっていた。本人によると夜のほうが走行ラインしか見えないから、コンセントレーションを高められるのだという。 小野はどんな状況でも失われない、クリスのユーモアのセンスも好きだった。 1983年にロンドンで食事をともにして以来、ずっと連絡が途切れていたクリスに関連する記事を、小野が英国の自動車雑誌で目にするのは1992年の秋のことである。 それはRocketという名前の、'50年代のF-1を彷彿とさせる葉巻型のボディのスポーツカーに関する記事だった。なんとタンデムに座席を2つ置き、その後ろに日本製の1000cc高性能バイクのエンジンを搭載した超軽量、超高性能スポーツカーである。 4本のタイヤは剥き出しで、申しわけのようにサイクルフェンダーが取り付けられている。車両重量は400kg以下、それに145馬力のエンジンであるから動力性能は圧倒的である。 設計したのは、小野がかつてマキF-1チームでぼろぼろになりながらヨーロッパを転戦していたころ、ブラバムF-1チームの新進気鋭のデザイナーとして注目を集めていたゴードン・マーレーである。 超一流チームと超貧乏チームとはいえ同じデザイナー同士、サーキットではときどき言葉を交わす機会があり、小野はゴードンの気取らない態度に好感を感じたことを記憶している。記事を読み進めるとこのRocketを企画し、プロデュースしたのはクリス・クラフトだという。クリスとゴードンが親しい友人なのを知っていた小野は、旧友ががんばっているのを喜びをかみしめる。その後Rocketの少量生産が始まり日本にも何台かが輸入され、気にはかかりながろもその時点では小野とクリスの再会にまでは発展しなかった。小野がCadwellのオンロードバージョン開発に着手するまでは。 |
■ クリス・クラフト 略歴 | |||
1939年生まれ | |||
1957年 | FORD入社 | ||
1961 ~65年 |
アマチュアとしてレース参加 | ||
1966 ~83年 |
プロフェッショナルとしてレース活動 -BMW Abarth Lotus Ford等等の ワークスドライバーとして活躍 -1971年 スゥエ-デンGP 優勝 -1973年 ヨーロピアン2lスポーツカーチャンピオン ル・マンでは3位、4位、5位入賞経験 |
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1989 ~95年 |
Light Car CompanyをGordon Murrayと設立 ROCKET開発・販売 | ||
1994年~ | Light Car Company Managing Director |