■もうひとりの旧友との再会(2) ヴァーノン・フォザリングァムが小野との再会を果たしたのは、アメリカの雑誌Popular Science に掲載された、高性能電気自動車IZAの記事を見たことがきっかけだった。IZAは小野の陣頭指揮のもと、東京電力のために東京アールアンドデーが開発したものであるが、記事のなかにMasao Onoの名前に見つけたヴァーノン・フォザリングァムは、つてをたどって東京アールアンドデーを見つけ、電話をかけてきたのである。 再会後、小野とヴァーノンは、東京とヴァーノンの本拠地シアトルを訪問しあい、再会までに経験したこと、現在のそれぞれの会社の状況を熱っぽく話し合った。そこでヴァーノンは小野が東京アールアンドデーで積み上げてきた技術、開発実績に感銘をうけた。一方小野はあいかわらずのヴァーノンの積極的な事業展開意欲と、その意欲が実際の事業に結びつくアメリカのベンチャー起業環境を実感する。 小野はその少し前にも、電気自動車に関連したベンチャー企業をたくさん見てきた経験から、アメリカの起業環境を理解しているつもりだった。だが、身近な友人から聞かされるなまなましい話には大きな衝撃をうけた。お互いの近況をはなしながら10数年前のことに話が及び、そこでお互いにそのころの夢を捨てていないことを確認、環境がととのえば今度こそ一緒にやろうと握手したのである。 1998年の3月、しばらく会っていなかったヴァーノンから小野の自宅にFAXがとどく。 環境がととのったというのである。 その少しまえに、ヴァーノンが創業した無線で光ファイバー並みのスピードと容量を確保する情報通 信技術開発とその事業化を行う会社が、IPO(株式公開)に成功していたのである。それから約1ケ月の間、小野とヴァーノンはFAXで電話でe-mail で連絡をとりつづける。日本がゴーデンウイークにはいった時期に小野はロスアンジェルスに飛び、出張中のヴァーノンにあう。それまで暖めていたCadwellをロードカーに仕立て直して製造、販売することを軸とした事業計画をヴァーノンに説明するためであった。 ビバリーヒルズ、ペニンシュラホテルのテラスでヴァーノンが小野の事業計画に賛同し、アメリカにベースを置く新会社を東京アールアンドデーとの合弁で設立しようという基本合意にはほとんど時間はかからなかった。 小野は翌月、英国でヴァーノンをクリスに引き合わせる。その足でルマン24時間を視察しながら事業の大枠は決定された。 ヨーロッパで生まれ、それをアメリカ合衆国が一気に大衆化して産業に育て、日本が繊細な味つけを施す。そんな具合に、世界のさまざまな地域の知性と意志が関わり合って発展してきたのが、自動車産業というものである。Cadwell ロードバージョンも、イギリス、アメリカ、そして日本とが融合することのなかから、今まさに生まれようとしていた。 VEMAC社は会長にヴァーノン、社長兼CEOに小野の布陣で、'98年9月に米国で会社設立の手続きをすませた。小野が実務面 の指揮を取ることになり、ここに商品化への正式なGOが下されたのである。
FOTON社が設立され、初期開発資金に一応の目処がついた結果、開発は一気に加速した。スティーブのイメージスケッチは、東京アールアンドデーのスタイリング部隊の手により1/5スケールのクレイモデルに置きかえられる。 同時に設計部隊ではCADをつかったパッケージ検討が進んでいく。 パッケージを進める上で問題になったのが心臓となるエンジンの選択とそれをどのように搭載するかである。 |